それでもそこに居続けるのは自分
結構な地位や名誉を手に入れた人であったとしても、理不尽なやり方で部下や配偶者を支配し続けている人がいます。
威圧的で、常に脅迫めいた怒り(もしくは穏やかさの内側にある腹黒さ)をまき散らしては、言葉や態度の暴力を使って相手に罪悪感を植え付け、それを利用してさらに相手に勘違いさせて動けないように仕向けていく・・・ある種の洗脳ですよね。
もしもこれを読んでいるあなたが、命の危険を感じていたり、人権を奪われるような状況にあるならば、今すぐ逃げて!逃げられますから!と伝えたいですが、時折、もはや感覚が麻痺して、そこに居ることが自分にとっての幸せなのだ、どこにいっても受け入れてくれる人など居ないのだ、この人しか居ないのだ、などと思い込んでいる人も見受けられるので、それに関してはもう、どうぞご自由にと言うしかないのが現状です。
どんなに酷い目に合っても、そこにしがみつく人がいます。
どんなに相手を虐げても、それを手放さない人がいます。
どうしてこんなことになるのでしょうね。
どちらの根底にも、不安と恐怖と絶対的な正しさという思い込みがあるのは、お察しの通りなのですが・・・。
目を覚まさせてやってくださいというのは無理な話
これまでにお逢いした方の中には、例えば息子や娘の目を覚まさせて欲しいという保護者の方の願いがあって一緒に来られたのだな~というような状況もありました。結局私は保護者の方の「こうあるべき」よりも、お子さん方が「どうしたいのか?」という考えを尊重してセッションする人なので、終わった後に「できればもっと違う言い方をして欲しかった」と腑に落ちない感じで保護者さんから言われて、なんだかなぁと思った経験もあります。
連れてこられたお子さんからすれば、「どうしてわざわざ他人の口を使ってまで親は自分にこうあるべきだと言わせようとするのか」、ですよね。
その魂胆をお子さんが分からないとでも思っているのでしょうか?
それを他人が言ったところで、どうにもならないことは本人も分かっているはずなのに・・・理解しかねるところです。
残念ですが、お子さん本人が変わろうと思わない限り、誰が何と言おうと変わりません。
親自身も「世間の常識」や「その地域ならではの思想」、「身勝手な正しさや思い込み」から、自分や家族の将来に対して悲観的になってばかりいると、盲点が増えるばかりになります。
親自体が世間体や常識や正しさという思い込みに囚われて、「その子らしさ」や「その子自身の望み」から遠ざかっているパターンが垣間見えると、結局何が望みなの?とこちらが困惑してしまうのが実情です。
「普通にできる子になって欲しい」という「普通」って何なのでしょう?「できる子」って何ですか?
そうおっしゃるかつての親御さん自身は、ちゃんとした「普通のできる子ども」だったのでしょうか。
価値観は人それぞれなので、一概に「こんな子が正解」とか、「こんな子は間違い」とかいうのはありません。
なので、何か意図的にこちら側を利用されようとするのはご遠慮ください。
「子どもにこれ以上悩まされたくない」と思われるのは結構ですが、そもそもそんな子どもにしてしまったのはご自身にも責任があるのですから。
冒険するしか道はない
今まで通りのやり方ではどうにもならないというのなら、冒険するしかないです。
同じことの繰り返しが嫌なら、その世界から出て前に進むしかないです。
「お前のせいでこうなった」「もっとこうするべきだということが分からないのか」「もっと親(自分)の面倒をみるべきだ」「お前が親(自分)にしたことを見てみろ」こんな風に相手を言葉や態度で威圧すれば、その場では相手に勝てる(優位に立てる)かもしれません。
しかし、自分から見て下位の(と決めつけている)相手に対し、そういった感情(罪悪感や恐怖心)を植え付け続けるとどうなると思いますか?いつか自分で刈り取らなくてはならなくなります。
もしも運よく、長い間そういったやり方で相手をうまく操れたとしても、やがて相手の人も感情が爆発しておかしくなるか、あなたの前から去っていくこととなるでしょう。
そもそもどうしてそれほどまでに、どうにかして他人をコントロールしたくなるのでしょうか?
どうして自分がそう思ってしまうのか?相手に感情を爆発させる前に、まずは自分が感じていることを素直に相手に伝えてみることです。
「今のままだと自分が不安。」「良く分からないけど、このままだと未来がどうなっていくのか怖い。」こういった、表面的なものではなく少し深いところにある感情や、そうさせている価値観、そういった感情や価値観になってしまう古い体験(昔の出来事)など、相手と分かち合うことができるようになれば、心が満たされ、癒されることもあるということです。強くあらねばならないなんて嘘です。不安や恐怖があるから危機管理ができるのです。孤独を感じるから優しくなれるのです。だから、何が悪いなんて無いのです。
ただ、幼いころから「こうあらねばならない」「こうでなければ存在価値を認めない」というような洗脳を受けてきた人には、にわかには信じられない話だと思います。
そこから出るためにはちょっとだけ勇気が必要ですが、その分、前に進めるかもしれません。考え方や感じ方を変えてみる価値はあると思いますよ。
恨んでいるから謝りたくない?
自分を正当化するために、誰かを悪者にするって良くある話です。しかし誰かを悪者にすると、逆に自分自身、身動きが取れないような状態に陥りがちです。それはなぜでしょうか?
なぜなら常にあなた自身の「こうあるべき」という正しさが、知らないうちに自分自身までがんじがらめにしてしまっているからです。
この「自分は絶対に間違っていない」という正しさが、「~しなければならない」という義務感からやってくるものであればなおさらです。
正しさに従えば従うほど、どんどんしんどくなっていくでしょう。
なぜなら、自分が選ぶのではなく、「こうするべきだから」で選んでいるから。
そうなると、本来ならば気を遣う必要のないことに気を遣わなくてはならなくなったり、やらなくても良いことに要らぬ時間を割く羽目になったり。
それでも自分は正しいことをしているから仕方がないのだと、またもや余計な正しさが、さらなる煩わしさや、さらに自分の足を引っ張ることに繋がって・・・
要らないモノを握りしめて離さない人がいます。
あなたにとって、それは本当に「なくてはならないモノ(人)」ですか?
あなたが本当に受け取りたいもの、与えたいものは何でしょう?
ときどき、「これって執着ですかね?」と聞かれることがありますが、そういった言葉が出てくること自体、すでに何かおかしいということです。
不思議なもので、相手に寄り掛かろうとすればするほど、あなたの良さやきらめきは失われていきます。その上、あなたが寄り掛かるほど、相手はだんだんとあなたの存在が重くのしかかるように感じられ、離れたいのに離れられない・・・こんな状態はまるで、相手を手前に引き寄せながらも、向こう側へ押し倒そうとしているようなものですよね。
執着し始めると、互いに相手を受け止めきれずに、むしろ相手から何かを奪おうとするばかりになります。
これではまるで、自分で自分の首を絞めるようなものです。
苦しいのに離せない。息が苦しい。状況も苦しい。それでも、つかんだものは離したくない。
だったら一度だけでよいですから、その手を放してみましょう。
互いのことを尊重したければ、とりあえず一旦、両手を空っぽにしてみてください。
それで呼吸が楽になれば、新鮮な空気が心身に流れ込み、視界がクリアになるはずです。
みんな完全ではありません。みんな全て欲しいものを手にしているわけではありません。みんな何かは欠けています。
うまくいき過ぎても死ぬことはありません。怒りか喜びかを選択しているのは常に自分自身です。
「相手」=「あなた」ではありません。
まるで唯一の頼みの綱のように相手にしがみつき、想う通りにコントロールしようとすることはお勧めしません。
相手からの愛情を全て奪いつくしたい、自分だけに夢中になってもらいたい、自分だけのそばにいて欲しい・・・
これでは相手がもっと近づくどころか、遠ざかっていくばかりだということに気がついてください。
「こうあるべきだ」ということを、すべて手放す勇気があれば、きっと「本来のあなたらしさ」と「素晴らしいパートナー」を手に入れることができるはずですから。
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