自分で自分をいじめ続ける物語
この仕事をしていて時々出逢うのが、自分で自分のことを、わざわざ虐げ続ける人たちです。
家族や恋人とうまくやっていくために傷つけたくない、周りの人たちを大切にしたいと言いながらも、
自分のこととなると平気で「劣っている」とか「価値がない」とか「ふさわしくない」などという酷い言葉をたくさん使って、自分で自分を傷つけることが簡単にできてしまう人たちなのが特徴です。
何もわざわざ繰り返し自分を責め続ける必要なんて無いのに、暇を見つけては自分の感情を無視したり、自分で自分を虐げることが常習化していて、四六時中「私は望まれていない人間である」という自己洗脳をし続けていることに気がつけないでいる人たち。
もはや、その人の人生のテーマ(使命)が、
「うまくいかない理由を見つけては、自分で自分を虐待し続けること。」になっているかのようです。
そのくらい、うまくいかないことに情熱を燃やし続けて見えます。
「誰かと比べてみじめな自分」、「誰かよりも成功していない自分」、「誰かよりも大切に扱われていない自分」・・・ほらね、やっぱり私はこういう人じゃん。
そうやって、「可哀そうな自分」の証拠探しに、一生懸命に生きていらっしゃるかのようです。
これを「自分探し」だと勘違いしていらっしゃる方もいます。
もしかすると、朝起きた時の第一声が「どうせ今日も、ろくな一日じゃないんだろうな。」という呪いのような言葉かもしれません。
仕事で褒められても「どうせ大事な場面では正当な評価なんてしてくれないに決まってる。」
ちょっと良いことが起きても「あまり調子に乗ると、周りの人の気に障って疎まれたり、目をつけられるかもしれない。おとなしくしておこう。」と素直に喜ばず、何が起きても窮屈な気分になるだけ・・・。
万が一、他の人から毎日毎日繰り返し繰り返し、こんなネガティブな言葉や態度で接し続けられたとしたら、言い続けられる側の人はどんな気持ちになると思いますか?
きっと「もうかんべんしてくれ!」と逃げ出したくなってしまうことでしょう。
しかし、これらはすべて自分の中での出来事です。
逃げようにも逃げられないどころか、ますます「みじめな自分の物語」具合が加速していくだけかと思われます。
それは「私」ではない
困ったことに、こうした酷い状態をどうにかしようと思うにも関わらず、
「今の状況から出ることはできない。むしろ今の方が安全。」と思い込んでいる人も多いです。
今の世の中には、このブログを含め、いろんな自己啓発系の情報や、スピリチュアル系の教えがあふれているので、間違った使い方をすると、さらにとんでもないことになりがちです。
「なぜ自分の人生はうまくいかないのか?」ということについて、「〇〇さんの本に、あるがままで良いって書いてあるからこれで良いのです。」「こんなに苦しいのは、今世で与えられた試練なんです。だから仕方がないんです。」と熱く語られる方もいらっしゃいますが、これでは何も変わるはずがありませんよね。
これではまるで「健康マニア」であるにもかかわらず、年がら年中、身体の不調を訴え続けている人となんら変わらない気がします。
知識としてそれを持っているのと、それを上手に使いこなすのとは、また別の話です。
学ばれるのは悪いことではないのですが、それでもどうにもならないのであれば、一度それらを手放すしかないと思われます。
そして、【「私」というのはこういう人間である。】という思い込みや【「私の〇〇(親・兄弟・仕事・能力・容姿・人間関係・体調などなど)」はこうである。】という思い込みを、全て捨て去ることから始めるのが、賢いやり方ではないかと思います。
なぜなら、【こういう人間である「私」】や【こうである「私の〇〇」】に囚われ続けていることが、最大の要因だから。
そしてそれらを誰かと比べることによって、凹んだり、自分をいじめだしたりしてしまうから。
【こうあるべき「私」ではなくなったら、どうすればいいの?】という不安もあるかもしれませんが、心配しなくて大丈夫です。
これまで気がつけなかった自分の新たな一面にワクワクできるわけですから、全く問題ありません。
そうでなくても、今この瞬間に「自分で把握できている自分のこと」なんて、とても限られた、狭い範囲のものに過ぎないからです。
あなたが思う【こうあるべき「私」】ではなくなったら、何が奪われてしまう(何を失ってしまう)と信じていますか?
あなたが四六時中いじめたくなる【こうあるべき「私」】が、そうではなくなることは、あなたにとって本当に最悪なことなのでしょうか?
むしろ、喜ばしいことではないですか?
もし、「本来の自分を生きる力」を取り戻せるとして、そうなることに「抵抗する自分」は、どんな感情で行動(自分に対する言動や態度も含め)してしまいがちでしょうか?
避けてばかりでは、何も変わらないどころか、同じことの繰り返しです。
誤魔化しがきかなくなってきている件
そして、最近の私のタロット占いは、素の自分に戻った時に「あの伝え方で良かったのかな?」と心配になることもあるくらい、割と核心をついたこと(あなたが大事に握りしめている「こうあるべき」はそもそも必要ないです。)を言ってしまいがちです。
これはもちろん、時と場合によるのですが(今じゃなければ自然に他の話題に変わる不思議)、
基本的に、カードから出てくる情報には嘘をつきたくないですし、優しいことだけ言って、占い師側がめんどうな問題を回避しても、後々しんどい思いをするのはクライアントさん自身だと考えるので、やっぱり言いにくいことも、どうにかしてお伝えするように心がけています。
また、先ほども書きましたが「タロットがそういうから、今はこの問題に向き合わなくて大丈夫。」というような、自分を生きることを蔑ろにする理由(やらない理由)にタロットを使って欲しくないというのもあります。
クライアントさんからどう思われても、必要な人に、今必要なメッセージをつい熱く語ってしまうのは、自分もかつて「同じ場所」に居たからなのかもしれません。
自分にも「そんなこと言われたって、そこから出られるわけないじゃん。何言ってんのこの人。」「ちょっとよく分からないけど、きっと大事なコトを言われてるんだろうな。」と思っていた時期が少なからずあるからです。
今となってはそのアドバイスをくださった方たちに感謝なのですが・・・それらがスッと腑に落ちるタイミングが、どこかにあると信じているからなのかもしれません。
【こうあるべき「私」の可哀そうな苦難の物語】
・・・そこから出るのは大変です。
そして油断をすると、いつだってそういった類の「物語の罠」にはまってしまう自分がいることに気づきます。
だからこそ、そこから出た際の世界の美しさや、自由に呼吸できることの清々しさは、何ものにも代えがたい、満ち足りた物語だと毎回思えるのです。
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