失望したくないけど失望している
人は何かが望むとおりにならなかった時に、失望することがあります。
でも、できれば深く失望したくないので、そのギリギリの瀬戸際で、結局いつまでたってもしんどい思いをする傾向にあります。
自分の可能性や未来を、自分で考えた枠の中に閉じ込めてしまうと、そうならないとダメだという焦りや不安が押し寄せてくるものです。
しかし、他の選択肢は見ようとすればいくらでもあるはずです。
ひとつしかない、これがダメなら、きっと何をやったって全部同じことだ、と勝手に決めつけて勝手に失望することはやめましょう。
それよりも、今、目の前の現実が、未来の自分にとってどうなのか?にフォーカスしてみてください。
失望という気持ちで満タンにして、何がしたいのか?というより何ができるのか?ということです。
失望で心に余裕がなければ、新しいものは何も入ってこれません。喜びも、楽しみも、すぐそこにあるのに見えなくなります。
だったらどうしたらよいのでしょう?
私の場合、いったん失望を自己責任で思う存分受け止めて、満タンになったらもうOKとします。それでいったん空にします。
そういうときって大抵こんな感じです。
そのやり方が最高だと思っていたけれど、そうではなかった。
そのやり方が正しいと思っていたけれど、そうではなかった。
ということは、そのことに対する理解が足りていなかっただけで、決して自分に価値が無いからではないのだということですね。
同じ失敗をしなければ良いだけのことです。
過去が未来を決めるのではありません。未来が過去を決めるのです。
今この瞬間、ワクワクと人生を楽しんでいれば、未来も自ずとそうなります。
失望や悲しみにしがみついて生きるのは、その人の自由です。
しかし、過去を終わらせずにそこに居続ける限り、新しい何かはやってきませんし、自分から光を見ようとしない限り、永遠に夜明けは見えません。
罪悪感という動かなくて良い理由
罪悪感を感じ続ければ、そこから動かなくて良くなります。
なぜなら、自由に動けなくなるように、自分で自分を責め続けて、そこに縛りつけることができるからです。
人は時々、自分自身を自分で罰したり、自分を攻撃することで、何か失敗したことやうまくいかなかったことの穴埋めをしようとします。
でも、本当にそのやり方で、過去の自分よりも前進していると言えるでしょうか?
罪悪感は、新たな希望や喜びを生み出しません。むしろ閉ざしてしまいます。
つい、自分を責めてしまいがちな傾向のある方は、これからは自分を罰することよりも、訂正することを選んでみませんか?
自分を攻撃することよりも、それを繰り返さないような知恵を身に付けてみませんか?
罪悪感を持つことは、美徳に感じられることがあるかもしれません。
罪悪感を持つことが、賢い方法だと勘違いすることがあるかもしれません。
でも思い出してみてください。
幼い頃の私たちは、どれだけ失敗を重ねながら、自分の足で立って、ひとりで歩く方法をマスターしたことでしょう・・・。
しりもちをついたり、モノに身体をぶつけたり、バランスがうまくとれずに膝から崩れ落ちたり、派手に転んだり、それでも立ち上がろうと這いつくばったり・・・
もしもそのたびに、歩けない自分に罪悪感をもって、自分を責め続けて、自分を罰し続けていたらどうなっていたと思いますか?
きっとまだ、「つかまり立ち」と「つたい歩き」から卒業できていないと思います。
罪悪感から自分を責め続けると、人は成長できなくなります。
不思議なのですが、子どもって失敗しても結構笑顔なんです。
今のは冗談、みたいに、転んでもまたニコニコ立ち上がるのです。
罰するのではなく、訂正しているように見えます。そこから知恵を得ているように見えるのです。
私たちはきっと、そういった経験をどこかで覚えているはずなのに、どうして大人になると何もかもが大きく、大げさに見えてしまうのでしょうか。
成功するには大きな犠牲を払う必要があるかのように思い込み、すべてを台無しにしてしまうような態度を、自分に対してとってしまうのはなぜでしょう。
本当は誰とも競う必要はないのです。
昨日の自分と競うくらいがちょうど良いのかもしれません。
いつまでも何かの犠牲になるのをやめて、自分が他人の世界まで取り仕切ろうとすることは、そろそろやめませんか?
そして、もっと気楽に、自分の人生を楽しんでみませんか?
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