職場での人間関係に疲れた時には
お話をうかがっていると、お仕事自体は問題ないのに、職場の人間関係に疲れて、仕事以外にも影響が出てしまっている方が見受けられます。
そもそもお仕事は「ビジネス」であり、そこで最も重要なのは「ファイナンス」なので、個人的な感情は持ち込まないのが基本です。
個人的な感情のせいで、うまくいくモノもうまくいかないとなると、会社にとって大きな損失になるわけで・・・そうなると、最悪クビになることも考えられますよね。
それでも万が一、職場で他人から個人的に実害を被ることがあれば、それは個人的に対処というよりも、しかるべき立場の人間や公的な機関に相談したり訴えたりすることが、真っ当な対処の仕方なのではないかな、と思います。
仲良しこよしなんていらない
なので、職場の人たちとプライベートまで仲良くする必要はないです。
仕事でチームワークが必要であれば、あくまで「仕事のゴールのために」そういった関わりをするだけで良いのです。
仕事で大事にしていただきたいのは、あなたが販売しているモノが商品であれ情報であれサービスであれ労力であれ、会社もしくはあなたにお金を払ってそれを受け取る目の前の(もしくは自分が関わった物事が最終的にたどり着く)人の幸せです。
人間関係のルールって何?
どうして私たちは人間関係で無駄なストレスを抱えてしまうのでしょうか?
たくさんの方のお話を聴いていて気がつくのは、それぞれが人間関係において最も重要視している、その人が勝手につくって勝手に守らなければならないと思い込んでしまっている「独自ルール」がいろいろとあるのだということ。
「こうしてはいけない」、「こうでなくてはならない」、「こんな時はこうすればよい」、「こう思われてはいけない」、「こう言うのがこんな場合のベスト」・・・
こういった「自分で創り上げたルールに逆に縛られたり振り回されて、自分らしい柔軟な対応がなんだったか、訳が分からなくなっている方」も多く見受けられます。
だったらそんなルール、やめてしまえば良いのでしょうが、「分かってはいるんですけどね・・・」ですよね。
それに縛られていないと安心できないと思い込んでいる場合もあります。
職場の人間関係だけでなく、パートナーとの関係でも同じです。
本来であれば、人間関係に年齢や性別、立場などによる思考や行動、言動の「定型」などなく、その都度その場面ごとに、自分が客観的に状況を把握したうえで、そこに何が必要なのかを察知しながら関わることが自然な振る舞いだと思うのですが、「これのはずだから、こういうやり方でないとダメ」「ここでこう思われなかったら終わり」などという自分ルールと、それを守れなかった、守られなかったことによる不満や罪悪感が、さらに状況を厄介なものにしてしまっているようです。
人を見ずにルールに囚われると失敗する
「ルール」といえば、セットになっているのが「違反すると何かしらの罰を受ける」ということですよね。
どこかで「ルールとは破られるためにあるものである」と聞いたりしますが、本当にそうかもと思います。
真っ先に思いつくのが「交通ルール」。
これは人命にかかわることなので、ルールがあって当然なのですが、人間関係は違います。
もちろん原則として、相手の命を脅かすような行為(犯罪)をしてはいけないなど、お互いを尊重するために必要な考え方はありますが、それは別として、個人的に思い込んでしまっている人間関係のルールなんて、よくよく観察してみると、相手と壁を作ったり、どこかもう一歩踏み込めない自分になるばかりで、それこそ、何かあるたびに自分で自分を罰する原因にしかなっていないように感じられます。
もしも人との関りにおいて、自分に罪悪感を持っていたり、人間関係で自信を無くしてしまっている人には、その人が作った「独自のルール」が先に存在していたことになります。
罰を受けたくないからさらなる思い込みに逃げる
いつのまにかできてしまっていた「独自ルール」。
私も中高生の頃に苦しんだ記憶があります。今思い出してもビックリするくらいおかしかったころがあって笑えますが、あの時の私は必死でした。。。
自分はいったい何のために、そんなしょうもないルールを作ってしまったかといえば、
きっと「自分が傷つきたくない」という気持ちと、「みんなが普通にできていることが自分にはできていない気がした」のと、「分かって欲しいのに分かってもらえない歯がゆい気持ちを自分でどうにかしたいのにどうにもならない」、「もはやどうしてよいのか分からない」というような、周囲に対する期待や要求が満たされないことによる欠乏感を、自分が見ないように、感じないようにするためだったのかもしれないな・・・と思ったりしています。
結局あの時は、どんなに必死になって頑張ってみても溝や壁を感じてしまうばかりでしたが、周囲のクラスメイトは思い詰めている私の様子に何も気づいていなかったようでして・・・何もうまくいっていない、私はひとりぼっちだと勘違いして独りよがりになっていたのは、実は私だけだった、というオチがあります。
確かその日は本当に思い詰めすぎて、訳も分からず涙があふれてきてしまい・・・保健室で落ち着くまで散々泣いた後、クラスに戻った時のこと。
「え?どうしたの?どこいってたの?何かあったの?」と周りに聞かれて、そこで目が覚めた感じです。
・・・他人は自分が思うほど、他人のことなど考えていないんだな、分かるわけないよな、そうだよな、と思った出来事でした。
そこから、上手く周囲に馴染もうとして、逆に滑稽な思考に陥るようなことや、他人の気持ちまで先回りして考えすぎて無駄骨を折ってしまうようなことなどの、自分でも何をやってるんだか訳の分からないことに時間と労力を使うことはやめました。
私ってそういう人なんだな、しょうがないなぁと、悩むのをやめたらすごく気が楽になりました。
タロットでこういう時に良く出てくるのが、「本当の自分の気持ち(本能)を自分でうまく扱ってあげることにまずは取り組む」ことです。
人は他人が自分の思い通りにならないと、心が痛みます。
でも、元をただせばそこに自分の意思や情動、欲求があるはずなのです。
期待を裏切られると「それは私が嫌われている証拠かもしれない」とか「私が重要・必要だと思われていないからかもしれない」などと、ルールを破られた自分を責めて、自分の価値を自分で落とすような思い込みの行為が始まったりします。
でも、ちょっとこの状況を立ち止まって別の視点で見てみてください。
「私はこう扱われるべき」というルールに囚われていたとして、実際にその通りに扱われることの方が稀だということに気がつけば、なんだか滑稽な気分になりませんか?
周囲の人がそんな風にふるまっているかといえば、そうでもないはずです。
「察して欲しい」という思いが根底にあるとして、果たして自分は周囲の人の思いを的確に察していて、その通り完璧に行動できているだろうか?ということです。そして、そんなことに神経をすり減らして生きることが、本当にあなたらしい人生だといえるのだろうか?ということですね。
人は他人の気持ちや考えを正確に把握できることなどめったにありません。透視能力者なら別かもしれませんが・・・
あなたはあなたしかいません。他人は全てあなたではないのです。
互いに理解し、尊重するしかありません。
自分も正しい、そして、私とは違うけれど、あなたも正しいと。
そのために会話をするのです。そのために自分の本当の気持ちをまずは自分で理解したうえで相手にきちんと伝えることも選択できるのです。
そのことに対する相手のリアクションや考え方がどうあれ、それはそれでよいのです。
あなたの正解が、誰かにとっての正解とは限りません。
あなたが無理なことが、誰かも無理とは限りません。
このことが分かっていないから、うまくいかないと思い込んで余計に辛いのです。
周囲の人に認めてもらうことで自分の価値を満たそうと躍起になっても、どこかむなしいだけです。
あなたが本当に「認めて欲しい」と思っているのは、本当はなんでも認めてくれる他の誰かではなく、常に自分を縛ろうとする自分自身に対してなのではないでしょうか?
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