人間関係の変化を怖れないで
時期的にセンター試験も行われたようですが、春はもうすぐなのですね。
あと数カ月もすると、入学、就職、転勤、転校などなど、今と環境ががらりと変わるという方もいらっしゃるのではないでしょうか?
この仕事をしていると時々、人間関係が変わることや、友達と離れたり、居なくなってしまうことが怖いというご相談をお受けすることがありますが、そんなに怖がることでもありません。
人間関係は流れる水のようなモノです。
変化して当然だと思ってくださいね。
離れる人がいれば、新たな出逢いも必ずあるものですから。
良く考えてみれば、この世に生まれてからこれまで、年齢問わずたくさんの人と関わってきたはずですが、全員のことを把握できているかというと、そうでもなく。
今はもう忘れてしまっていたとしても、親切にしてもらったことなんてたくさんあるでしょう。
友達はたくさんいた方が良いという根拠も、人それぞれだと思います。
友達が欲しいというお悩みもあれば、
友達の管理がいちいち煩わしいというお悩みもあるように。
人間関係において、何が正解か?なんてないわけです。
「みんなと仲良く」というのが難しいとお悩みの方もいますが、
みんなが仲良くできていたら、そもそも戦争なんて起きないはずで。
なので「みんな仲良くなんて無理な話だよな」と思っていた方が、よっぽど気が楽ですよ、という話ですね。
なんでも気の持ちようで、まったく同じ状態であっても、楽しくもなればしんどくもなるわけです。
夫婦関係がわずらわしい?
伴侶がいらっしゃる方は、きちんと自分のことを相手に伝えられているかどうか、きちんと相手の話を聞いてあげられているかどうか、そういった、自分も相手も話しやすい雰囲気がつくれているかどうか?という現状をまずは確認されてみてください。
他人同士が一緒になるって、やっぱりどこか努力のようなことも必要で。
特にお互いを理解しようとすることって必要不可欠だとは思うのですが、時折それを放棄してしまっているというか、(気づいているかどうかは分かりませんが)お互いのことに対して興味関心を失ってしまっているご夫婦も多いようです。
自分自身と仲良くする(自己信頼・自己尊重)ことももちろんですが、生涯を共に生きると決めた相手に対して自分と同じくらい信頼を寄せることが、今の時点でどのくらいできていますか?
できることなら1番に信頼したい、共に歩みたい存在であった人が、いつの間にか1番信頼できない人になっているとか、無いですよね?
どうして素直な会話ができないの?
パートナーに対して、言いたいことが言えない・訊きたいことが訊けないなど、パートナーに対してやたら遠慮したり、敬遠したりしてしまう人も居るようですが、せっかくの関係性なのに勿体ないことです。
こじらせてお悩みの方も多いですが、きっと他者に対してそんな関わり方をしてしまう癖があるから、気がつかないうちに迷子になりがちなのかもしれません。
うっかりすると友達よりも伴侶のことを知らないという人、知ろうとしない人もいたりしますが、じゃあなんで結婚したの?一緒にいる目的は何?何かしらの欲を満たしてもらうためだけ?と、失礼ながら思ってしまいます。
一方で、パートナーにやたら遠慮しすぎて(嫌われたり拒絶されるのが怖い、こっちから言うなんてプライドが許さないなどの理由から)、いろいろ気になっても自分からは何も言い出せないという方もいらっしゃいますが、根本的に相手のことを好きすぎてそうなるのか、相手というよりも自分可愛さゆえなのか・・・むしろ「何のために素直にならないでいるのですか?」と思ってしまったり。
それって本当に自由なのかな?と余計なことを考えてしまったりですね。
幸せならそれでよいとは思うのですが。
私からすれば、ときどきこういった風に感じながらも、所詮他人事でしかありません。
仕事と個人的な主観というのは、切り離して考えています。
余計なお世話なので、私個人としてのアタマの中は、こうやってブログに書いていくだけです。
でもあなただって大概でしたよね?
ここまで書いてしまうと、なんだかかつての私のことをこんな風に言われそうですね。
参考になるならないは別にして、私の場合はどうだったか書いてみましょうか。
私の場合は、子どもができてから完全に思考が停止してしまって、「ふがいない自分のことを責める自分」と、「やりたいことをやりたい、自由でありたいと主張する自分」「自由であることを諦める自分」が葛藤しすぎて、大事な自分軸が機能不全というか不在になり、今の自分がどうなのかさえ頭の中にモザイクがかかったような、肝心な部分が消去されてしまっていたような状態だったというのと、どう足掻いてもここから出られないという変な呪縛にとらわれていたこともあり、誰にも本当のことは言わない(言う必要がないと思い込んでいる)人にあえて自分からなっていたという、非常に残念な状態でくすぶり続けた過去があります。
では、「在って無いような自分の隙間」をどう埋めていたのかといえば、くだらないこと(テレビのワイドショーの中の人と一緒になって知らない誰かを批判したり、逆に他人の悩みを自分のこととして親身になって考え続けてあげることなど)で、どうにか自分の尊厳を保っていた感じです。
「良い人でいなきゃ」「失敗は許されない」などというおかしな強迫観念から、自分の意思や自分の時間まで切り売りしては相手のために使うという、間違った習慣・物事に対する姿勢が身についてしまっていました。
しかしそうすることで、もしも何か上手くいかないことがあったとしても、「その人達のために頑張っている健気な自分がいるのだから問題ないし」と言い訳になる一面もあり、それはそれで楽といえば楽だったのかもしれません。
あの頃の私は「馬鹿な自分と自分の間違いを認めたくない」がゆえに、自分と向き合うこと(現実)から逃げて、自分よりももっと生きるのが大変そうな人たちの話や悩みを聞いたり、他人のために解決法を探ったりしては(結果的にそうすることで自分の問題から気を逸らすために)、何かしら他所の誰かに世話を焼くことに必死になっていました。
でも「こんな自分は自分じゃ無い・どうにかならないものか」と無意識は頑張っていたらしく、仕事柄、少しずつ交流を広げていく中で、たまたま知り合った方の経歴というか肩書きで目が留まったのがコーチという職業の存在についてでした。
今思えば大変失礼な話なのですが、お試しでセッションしていただいたときに「あなたがやめたいと思えば、いつでもそこから出られるんですよ。」と言われた瞬間、頭の中で「何をとんでもないこと言ってくれるんだろう。そもそもの話がずれてる。やはりこういうのは自分には合わないのかも。」と、今の私からすると本当に申し訳ないくらい酷いリアクションを取ってしまった思い出があります。
ずれていたのは私の方だったのに、ですね。
今の自分の肩書きをやめるなんて、そこから出るなんて、そんなこと端から私の頭の中には無かったですから。
やめられない、出られないのが前提でしたので。そこを覆すなんて当時の私には有り得ない話だったわけですね。
まさに盲点。
さらに人間関係にしても、悩み多き頃でした。
確かにその当時、ちょっとした悩みを話せるくらいの知り合いはいたけれど、じゃあその人が友達か、親友かというと、それは良く分かりませんでしたし。
伴侶とも、どう関われば良いのか?全く分からず。
三歩下がって相手を立てるべきなのか、文句を言わずに黙ってついていくような奥さんが優秀なのか、何が良いのか、何がダメなのか、妻としても女将としても母親としても世間から求められることが多すぎる気がして、自分の中で素敵な奥さんとは何なのかというイメージすらできなくなって、というか、イメージすることも嫌になって。
あの頃の自分は、ただ若いというだけで、中身は空っぽだった気がします。
というか、私が自分から空っぽにしてしまった気もします。
じゃあ、どうやってここまで来られたのか?といえば、私の場合はかなりの時間とお金と労力がかかりました。
今思えばゾッとするような状態であったにもかかわらず、なかなか出られなかったのは、それでもどこか信じたい自分が居たからだとは思うのですが、どんなに心を清く正しく頑張ろうと思っても上手く行かないという中で、相手を変えようと思うことがまず間違いであると気がつけたこと、自分自身のことから変えていく方が楽だと気がつけたのも、この長くて苦しくて、滑稽で愛おしい経験があってのことです。
私が「こうあるべき」だと「当たり前」だと思っていたことが、すべて世間から刷り込まれた不自由な要因、幻想であったのだということに気がつけたことが、いろんなことから目が覚めるきっかけでもありました。
世の中にはコミュニケーション能力を磨くだけではどうにもならないことが多いです。
無知って罪です。
人間ってなあに?
自分ってなあに?
世界はどうなってるの?
スピリチュアルにしても、いろんなノウハウを売りにした商売にしても、結局は自分よりも知識の無い人向けであることに変わりはありません。
信者とはそういうものです。自分の知らないことを知っているすごい人だからと、いとも簡単に洗脳されてしまう。
劣等感やコンプレックス。いただいた恩は返す?相手からすればビジネスですから。ビジネスは損か得かです。
だから私は、ここに来られる方や学ばれる方と対等でありたいし、協会や団体を作る気にもなりません。
お互いにプラスになる関わりが理想です。
私が学ばせていただいている、素晴らしい能力を活かしていらっしゃる方々は、不思議とそういった方が多いです。
決して偉そうではないし、金の亡者でもない。
振り返って客観的に今を見ると、こうやってここに居られることに、感謝することばかりです。
感謝というのは、これまで関わった人に対しても、これから出逢う人に対しても。
迷子になっていたあの頃の私は、スピ系の本ばかり読み漁っては「ありがとう」「感謝します」とか呪文のようにやたら繰り返して満足していたけれど、本来ならば自然に沸き起こるはずの、それに伴う心からの感謝の気持ちを、どこかに忘れていたかもしれないな~、無知なスピリチュアル信者だったな~と、今なら理解できるのですけどね。
そこから急激に環境や人間関係が変わっていくにつれ、その場面に応じて出逢った人も、手に取った本も変わってきています。
何がどう変わろうと、こうやって生きていられるのですから、ありがたいことですね。
そして、来週の月曜日(21日)には大きな司会のお仕事をひとつ、楽しんできます。
とりとめのない話にはなりましたが、くだらないことにいつまでも足をとられているって、楽しいですか?
しんどい方向に仕向けてしまっているのは、実は他の誰かではなく、自分自身のほうではないですか?
勇気を出して客観的に今の状態を俯瞰してみると、
ごちゃごちゃしているように感じられる今の状況は、ただの自分勝手な妄想や取り越し苦労でしかなくて。
他人事としてみてみれば、実際には何がどうなっているのかが、意外と分かりやすく感じられるようになると思いますよ。
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