血が繋がっていたとしても
いつもありがとうございます。
今回は、私自身もこれまでたくさん悩んできた、自分だけの問題ではないからこそ線引が難しい、「誰かと共に暮らすこと」について書いてみます。
たとえば一番身近な「家族との暮らし」について。
私の場合、幼い頃は三世代で同居という環境でしたので、割と寂しい思いをせずに済んで有り難かったのですが、だんだんと成長していくに連れ、内部の人間関係が嫌でも目に入るようになってくると、変に顔色をうかがうようになるというか、逆に居心地の悪さを感じることが増えていった気がします。
外側からは幸せそうに見えていたとしても、夫婦間、嫁姑間、親子間、親戚づきあいにおいて、誰しも全く問題がない訳ではないものですよね。
とにかく極力波風を立てずに暮らしていくため、その時の私が選んだ手段といえば、できるだけ目上の人たちの立場を認めるということであり、その場では目の前の人の意見に同意するといった立ち回りの仕方であり、基本的には否定も反論もしないことであり、できる限り目の前の人の味方であるかのように振る舞うことでした。
しかしながら、誰にでも良い顔をしながら過ごすというのは、私にとって無駄にエネルギーが必要なことだったようです。
その満たされなさというかストレスというか皺寄せが、他のところで出てしまっていたのですが、そのことについてはまた別の機会にお話ししようと思います。
このような生活を続けて、最終的にどんな自分に至るかといえば、何かトラブルが発生したときに、自分の立ち位置が明確にできず、何も選べなくてオロオロしてしまう残念な自分。
揉め事の中で誰の味方についたとしても、その他の人から責められると思うと嫌だし、そこで余計なことを言われてしまったら後々気まずくなるだけだし、そんなことばかり考えてどっちつかずでもたもたしていると、最終的には誰からの信用も失い、その後の自分の立場が危うくなるという、さらに残念な状況にもなりかねません。
さらっと流せばいいや、と思っても「あなただって、そう思うよね?」と、強く言ってこられると、どうしても無視できずに、結局は巻き込まれてしまう自分も居ました。
子どもながらに穏便に生活しようとしてやってきたことが、逆に自分の立場を悪くするといった苦い経験は、大人になってからも知らないうちに繰り返してしまっており、30代になると同じような状況下でビックリするくらい失う経験をしなくてはならず、それでようやく気がつけた自分がここに居ます。
どうしようもない事態にまで陥って「これまでのような選択の仕方はやめる」と決めてからは、嫌なものは嫌、できるだけ関わりたくない何かとは関わらない、お互いのために関係性を手放す、無償の愛とかいう名目の余計なお節介はしない、といった選択ができるようになりました。
すなわち、他人の顔色をうかがいながら生きることから、自分の調子をうかがって生きることに変化したということです。
他人の反応よりも、私の心が(感覚的なものが)どう感じているか、の方を大事にすることは、最終的に自分を愛すること(=周囲の人を愛すること)や、自分の本質を生きることに繋がります。
結果、今の自分は過去の自分よりもかなり気楽に生きられていると言えるのですが、それができるようになってきているとしても、やはり他者と共に暮らすというのは、なかなか大変なことだよな〜と、みなさんのお悩みごとからもいろいろと感じてしまう今日この頃です。
共に暮らしやすい環境とは
例えば、共に暮らす誰かが昼夜逆転の仕事をしている場合、片方は昼間に活動して、もう片方は夜活動することになるので、慣れないうちは互いに気を遣って落ち着かないかもしれません。起きて顔を合わせる時間も限られ、話したくても物理的に無理な場合、こういった、どうにもならない些細なことから不満を抱き始めると、他のことでさえうまく行かないのではないかと悲観的になることがあります。
家のことにしても、誰かひとりが負担を強いられていた場合、普段は「別に平気、特に周囲の助けは求めてないし。」と思ってやれていたことが、何かの拍子でバランスを崩し、いつも通りにテキパキ動けないとなると、嫌でも周囲の人の態度に意識が向いてしまうものです。
「なぜこんな状況になっても誰も手伝ってくれない?」「なぜ私のしんどさを誰も気がついてくれない?」と、いつもなら感じないはずの虚しさに襲われたり、周囲の気遣いのなさに今さら絶望したり。
あたりまえって、あたりまえじゃなかったりするのだけれど、それを「あたりまえじゃないんだよ!」と押し付けるのもどうかと思うし、複雑ですよね。
そこで私は個人的に、「何のために共に暮らすのか?」というシンプルな問いを、常に持ち続けながら日々を過ごしています。
「御互い様」という言葉があるように、私も気がつかないだけで、相手に気を遣わせていることがあるかもしれません。
しかしながら、それを差し引いても我慢ならない態度に限界を感じたり、これ以上はもう無理だなと思える状況に陥った場合は、やはりお互いのために距離を置くしかないのではないかと思っています。
もちろん、まずは良いことも嫌なこともきちんと伝えた上で話し合いをすることや、互いにルールを決めて、しばらくそれらを守ってみることも前提です。
それでも一緒に決めたことを守れないとか、同じ空間に居て、相手を生き苦しくさせるような存在になりがちなのであれば、そはれもう、お互いの生き方や価値観、考え方が合わないということになりますので、共に暮らすには向いていない人、ということになるのではないかと思います。
それはそれで仕方のないことです。
一緒に暮らしてみないと分からないことだってありますので。
どんなに努力しても、結局はお互いの足を引っ張り合うような生活になっているのであれば、早いうちに解散した方が良いということですね。
とはいえ、離れるって難しい
私もそうでしたが、簡単に解散できたらどれほど気楽なものかと思います。
特にこういうお仕事をしておりますので、ご相談を受けるお悩みの中には、同棲、同居、別居など、いろんなパターンの暮らしの中での問題があり、「○○の手前、今すぐ離れるのは避けたい」といったように、それぞれの方がお持ちの事情も、やはりそれぞれだったりするものです。
もちろん、「今の自分が何を優先するか」によって、選択は様々だと思います。
ここで「一緒に居続けることを選ぶ」のであれば、一旦覚悟を決めてみて、しばらくはグズグズ悩まずに、関わり方を変えながら様子を見てみることです。
「離れることを選ぶ」なら、それを選ぶ自分を責めないことです。
誰のせいでもない、ただ、お互いの人生を尊重するために決めることなのでしょうから、その選択ができた自分を誇りに思ってください。
人というのは、一度手にしたものを失うことが怖かったりするものです。
元々は無かったはずのものなのですから、本当はゼロになっても何も悪くはないはずなのに、です。
「もはや相手のことが好きなのかなんなのか分からなくなりました。これは(手放すのが惜しい、これまで費やした時間が無駄になるのは嫌、今さら独りになるのが怖い、他の誰かに取られると思うとムカつく、というような)変な執着になっていないでしょうか?」というご相談もいただくように、相手が家族のような存在になってくると、相手側の態度や仕打ちがどうあれ、一緒に居ることが当たり前になり、感覚的に麻痺し過ぎて分からなくなることもあると思います。
ただ、これも個人的な意見になりますが、本当に「その人と心から離れたい」と自分自身が思えない限り、他の誰がどんなアドバイスをしたとしても、基本は変わらないと思っています。
その時の自分にとって権威のある存在から、脅しをかけるような言い方をされればまた違うのかもしれませんが。
特に私の占いは、「こうしないと不幸になるよ」というような脅しはしない占い方になっています(分かっていて不幸をやっている人も中には居りますので、そういう時は念の為、確認することにはなりますが)。基本的に、占い師に人生の選択を委ねるような(選んで欲しい)人には不向きの占いですので、そういう方は他の占い師さんに頼られると良いかと思います。
その代わりに、「Aの選択をすればこうなりそうなので、もしもAを選ぶのであれば、こんなことに気をつけてもらえるとうまく行きそうです。逆にBの選択をした場合はこうなりそうですので、Bを選ぶのであればこういったことに気をつけると良いようです。」といった、参考程度のアドバイスは可能です。
いろんな可能性や方向性を見据えて、今の自分にとって最善の選択をされるための材料としてご利用いただけたらと思います。
結局、最終的に選ぶのは自分自身なのですから、
今、もしも誰かと一緒に暮らしていてみじめな思いをしているのであれば、それを選んでいるのもまた自分自身なのですし、
気楽で幸せだな〜と思えているのであればそれもまた、過去の自分が選んで、今もそうしているだけのことなのです。
何がみじめで、何が幸せなのか、受け取り方は人それぞれですので、何も正解はありません。
なので、「あなたの好きにすれば良い」が最近の私の心のつぶやきになります。
なぜなら、自分の心の在り方や喜怒哀楽、誰とどこで暮らすかなんて、いちいち誰が決めるでもなく自分で決めることであり、他の誰かの「認定」や「承認」など、そもそも必要ないのですから。
周囲からどう見られるかや、目先の損得だけで自分の本質を見失わないように、注意が必要だということですね。
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