催眠術って、とても樂しいものです。1度でも催眠術に掛かった事の在る方なら、そう考えて居られる方が多いのではないでしょうか。しかしながら世には「意地でも催眠術に掛からないぞ」と、決意にも似た様な事を考えてる方も居られます。また催眠術に掛かって、イライラする人も居られます。まぁ催眠術師の腕の良し悪しにも関わってくるのですが、こういった方々はどうなんでしょうね。催眠術なんて遊びです、娯楽です。掛かった方が樂しいに決まってますし、損か得で考えれば得です。つまりは何事も、素直が1番という事なんでしょうね。
催眠に掛かってる時、その人の頭は3歳児レベルに成ります。ですから考え様に依っては、催眠に掛かってる時に人は本性や本音が出ると言っても過言ではないでしょう。とはいえ催眠術では、本性も本音も一時的に催眠術師から与えられる暗示で書き換えられてしまう訳ですがね。さっきも書きました、催眠術を掛けられてイライラする人なんかは・・・恐らく、ストレスが溜まってるんでしょうね。勿論、ストレスが溜まってても催眠術を掛けられて樂しめる人も居る訳です。それまぁさっきも書きましたが、その人の本性に依る所が大きいでしょう。
ただ、本性って何でしょう?言い方を換えるなら、自我って何でしょう?答えから言うと、自我なんて在りません。在りません、と言ってしまうと乱暴ですね。在る事は在るんですが、流動的なものなんです。常に変化してます、本来なら。だって半年前はあの人の事をかっこいいと感じて好きだったのに、今は全く違う。なんて事は、ザラに在る訳ですよ。自我だとか性格だとか人格だとか、実は換えれます。特に性格は、キャラクターです。アイデンティティーである人格と違い、ピュ〜と換えれます。だから性格の事で悩むのは、莫迦らしいんです。
釈迦さんは『非我』という考えを、説きました。それは『無我』という考えとは、違う訳ですよ。さっきも書きましたが『我』は確かに在りますが、コロコロと変化するんです。時と共に自然と勝手に換わる事も在りますし、それこそ催眠術を使えばピュ〜と換わります(但し催眠術を使って換わった我は直ぐに元に戻りますが)。つまり『無我』ではないですが『無常』ではある、という事ですね。私達の考えてる事なんて、ピュ〜と換わります。だからこそ、私達には可能性が在るんです。という事は『固定』こそが、私達の成長を阻むものなんです。
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