代替
ヒンズー教の人は、惨めさを成功で補います。惨めさを感じた時に「最後に勝てば、それで良いんだろうが。」とか、そんな感じです。これは良い言い方をするなら、惨めさをバネにしてがんばるという事。そう聞くと悪い事ではない様な気もしますし、惨めさをキッカケにがんばるというのは初めは良いです。でもあくまでも、それはキッカケ・初めだけです。周りに居る人は全て敵、誰にも心を許せません。常に人と我がを比べ、争い続ける毎日。勝ち続けなければならない、負けた瞬間に全てを失う。そんな生き方が、果たして幸せなのでしょうか?
転換
イスラム教の人は、惨めさを別の物に転換します。例えば容姿の事で、人から貶され惨めさを感じたら。「今の私の姿は仮の姿で、真の私は絶世の美女なのよ。」例えば金銭の事で、人から蔑まれて惨めさを感じたら。「今の私の姿は仮の姿で、真の私は絶世の大富豪なのだ。」これもヒンズー教の人と同じで、こう考える事でがんばれる人も居ます。でも新興宗教の教祖さんなんかに、このタイプは多かったりします。つまり、色んなコンプレックスが爆発して・・・終いに「私は神だ!」みたいな(笑)つまり紙一重で、危険度の高い考えなんですね。
救世
宗教という物が何でこんなにも世界中で爆発的にロングランヒットして、私達の心を掴んで離さないのか?それは宗教が、惨めさから逃れる逃げ道だからです。もちろん、思想学・哲学として宗教をキチンと学んでる方も多く居られます。キチンと信心・信仰してる宗教家さん、キチンと修行し神さんや仏さんと関わってる霊能者さんも多く居られます。でも、そうでない人も多いのでしょう。だから今でも宗教の名の下に、神さんの名の下に多くの人が殺し合ってます。釈迦さんやイエスさんが産まれ、もう2,000年を越える時が過ぎたというのに。
罪を許す
宗教は悪い物では在りません、ただ宗教もレベルアップする時が来てるのではないでしょうか。般若心経には、ちゃんと意味が在ります。それを解った上で、唱えるのはどうでしょう。イスラム教で豚の肉を食べてはいけないのには、ちゃんと訳が在ります。それを解った上で、その教えを守ってみてはどうでしょう。神さんや仏さんとは、どんな方なのか。それを知らなかったとしても貴方の宗教の教えは、せめて貴方が胸を張って貴方の子や孫に伝えれるでしょうか。宗教とはすがる物ではなく、明日を元気に生きる為の知恵なのではないでしょうか。
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