こういった世の中だからこそ
いつもありがとうございます。
新しい年が明けたというのに、世の中はなかなか明るい兆しが見えないような気がして、心まで曇ってしまいそうな気分でお過ごしの方が多いようです。
私の話で申し訳ないのですが、私の経験上、鬱々とした日々を過ごそうと思えば、いくらでも地獄のような気分を味わいながら過ごせます。
もう自分なんてどうなってもいい。
自分はどこかおかしいんだ。
これ以上どうしようもない・・・。
こんな風に、心の中で繰り返し唱えれば唱えるほど、まるで呪いのように自分自身の心を痛めつけ、出口の見えない絶望感に元気も希望も失われていく・・・。
他人からも世間からも見放された気分。
誰も私のことなんて分かってくれないし、そんな権利すら、もう持っていない気がする。
なんでこうなったのか、もう考えたくもない。
なぜなら、全部自分のせいだから。
私の場合は、外に仕事に出て、それなりに社会活動にも参加していましたし、外面は非常によかったのですが、家に帰って一人になれば(例え家族の誰かが居たとしても)、実際の心の中はこんな感じでした。
どうにかしてこういった気分から抜け出そうと、日本でいうところのスピリチュアルな本やアドバイスに傾倒して、どこかに正しい解決の方法や苦しみの答えがないか、探し続けることもやってみました。
それでほんのしばらくは前向きになれたとしても、再び過去の失敗や選択ミスした思い出が容赦なく頭の中を駆け巡り、また新たな方法や答えを模索するという悪循環。
嫌な出来事だと処理するが故の
過去の失敗や選択ミスは、それぞれを切り離して考えがちです。
そして、できるだけ小さくたたんで見えないようにどこかに隠そうとします。
しかし、そうしようとすればするほど、それぞれのバラバラな嫌な感じのするものが、まとまりなく自分の周囲にまとわりついているようで、気分がすぐれないものです。
これらを「見て見ないフリ」し続ける限り、悪循環から抜け出すことは難しいでしょう。私がそうだったように。
大事なコトは「何のためにそれが起こったのか?自分はそこから同じことを繰り返さないために(教訓として)何を学べたのか?」という、自己の経験を自己の学びに変えることであり、他の誰かや何かがあなたの心を劇的に変化させてくれるものではないということです。
そう捉えてみることで、「本当に自分だけの責任で起こった出来事なのか?それは、こんなにも長期にわたって自分自身を虐げなくてはならないほどの酷い出来事だったのか?」など、今までよりも冷静に、別の視点から眺めることができるようになったりします。
捉え方を変えて観ることが、それまでのように「どうして自分ばっかり不幸なんだ」というような、嫌な出来事として拒絶しつつもそこに囚われて思い悩み苦しむという、しんどい状況から脱出するための第一歩のようです。
変なこだわりを捨ててみる
私の場合は、
「自分の夢や生活を犠牲にしても、家族や周囲の人にとって善人でなくてはならない。」
「たとえ自分の意に反していても、周囲の人の言うことに黙って従うこと、笑顔で譲ることが愛情のしるし。」
「苦労を買ってでもしなければ、幸せになる権利はない。」
「普通に仕事をして、普通に家族をつくって、普通に親族や知人や会社の人とうまくやっていけない人は生きている価値なし。」
こういった変なこだわりを持って生きていました。
上に記したのは、たった4つの項目ではありますが、これだけでも十分、自分一人を苦しめ続ける材料になり得ます。
これらを別の言い方にしてみると、
「みんなにとって善い人であり続けることの方が大事だから、それを邪魔する個人の望みや夢なんて、持たない方が楽。」
「みんなに愛され、感謝されるためには、いつも周囲の意見に合わせてあげて、笑顔でなんでも譲ってあげるのが当たり前。」
「苦労すればするほど、いつかきっと幸せになれるから、今のこの良く分からないしんどさは素晴らしいものだ。」
「普通であることこそが、生きる価値があるということなのだ。」
私は自分の選択を他人に委ね、自分のご機嫌さえも他人に任せ、たとえ不満があっても、たとえうまくいかないことがあっても、「それは周囲の人の対応の仕方が悪いからであって、自分のせいではない。どうやったらこの人は、もっとましな対応をしてくれるようになるのだろう?」と、なんだかんだ周囲のせいにしているにもかかわらず、「どうして自分の人生はこんなにも苦しいのだろう・・・こんなにもみんなのために気を遣って生きているのに報われないなんて。」と被害者面して生きていたわけです。
今の自分であれば、過去の私に対して「自分の命を何だと思ってんのよ!!!」と怒鳴り散らすかもしれません。
完全に自分の個性を活かす(喜びに生きる)ことから外れた生き方をしていたわけですから。
余談ですが、そもそもあの頃すごく気にしていた「普通であること」って何でしょうね。
国が変われば、状況が変われば、これまでの常識が非常識になることもあるわけで・・・正解がないものを、周囲や世間の顔色を伺いながら探し求めていたわけですね。
しかしながら、どうして私はこんな極端なこだわりを持つようになってしまったのでしょう?
許せない人はいますか?
ここから先に書き記すことは、誰かを責めるものではありません。
みなそれぞれにストーリーがあり、いろいろな体験をしながら、結果的に(良くも悪くも)そうせざるを得なかった部分があるからです。
さて、私はどうしてあんなこだわりを持つに至ったか、自分なりに探ってみたわけです。
今だから書いてしまいますが、たぶん私は両親を含む最初の頃の周囲に居る大人たちが許せなかったのだと思います。
家でも学校でも地域の中でも、世間体ばかり取り繕って実際は空っぽだったり、互いの腹の中を探るために子どもである私たちを利用したり、
子どもを味方に付けようと、他の大人の悪口を、その人が居ないところで吹き込んできたり、都合が悪くなると脅したりはぐらかしたり茶化してきたり・・・
見せかけだけの仲の良さ、好感を得るために親密な態度を取ってくる大人、同情を誘って従わせようとする大人、それなりの立場にあるにもかかわらず、平気で子どもを差別、セクハラ、モラハラする大人たちに、反吐が出る思いで過ごしてきました。
きっとあの当時の私はこう思っていたはずです。
「あなたたちは、何が楽しくてそこに居続けるの?」と。
大人には表と裏があって、みんな互いを腹の中では嫌っているのだ、と思い込むのに十分な環境だったのだと思います。
強いふりして弱い。弱いふりして強い。自己愛が強く、誰かを愛しているふりをして本当は疎ましく思っている。中と外が矛盾している。それがとても怖い。
きっと私のことだって、腹の中では嫌っていて、面倒に思われているのだろう。
どうせみんな自分の立場を守ることに必死で、私が意見することなど、毒にしかならないだろう。
だったら、「毒にも薬にもならない、どこに居ても特に害のない、居ても居なくても構わない人。」になれば良いのだ!
そのように思い込んで、そういう風な目で世界を見て、そういう風な主観で情報を受け取る癖がついてしまったから、だんだん自分の本質からズレていき、どんどんしんどくなっていったのだと思います。
自分から、この世界を薄暗く、霞のかかった冷たい世界にしようとしてしまっていたという・・・。
勝手に憤り、勝手に理解したつもりになり、勝手に許す
こんなに苦しい物語の中にい続けても誰も救われないのなら、「どうにかして誰かに思い知らせてやろう。仕返ししてやろう。」とすることをやめるしかありません。
悲しいことに、気がつけば、私自身が(反吐が出るほど嫌いだった)どっちつかずのいい加減な態度を取る大人になってしまっていたわけです。
幼い頃の私が、最も恥ずかしいと思っていたはずの態度で、周囲の人に接していたわけです。
まさに、「あなたは、何が楽しくてここに居続けるの?」ですよね。
これ以上、この滑稽なパターンを繰り返さないためには、これまで自分の中で「嫌な体験」だとか、「嫌な態度を取られた」と思っていた過去の物語を、自分の腑に落ちるカタチで終わらせる必要がありました。
私の場合は、「出さない手紙」をたくさん書いて気持ちを整理しました。
・許せなかったエピソード。
・あの時私が言いたかったこと。
・あの時私がして(言って)欲しかったこと。
・その出来事をきっかけに、自分自身が気づけたことや、世の中の役に立てるようなカタチで成長できたこと。
・逆に、その人との関係性でありがたかった(嬉しかった)エピソード。
・これらの出来事のおかげで成長できたことに感謝します。あの出来事は、相手にも何かそうしてしまうような(そうせざるを得ないような)事情があったのですよね。それはもう追及しません。相手のことも自分のことも許します。
こんな感じで書いていくと、ちょっとずつ気持ちが落ち着いていくのです。
悪いことばかりじゃないな、自分の受け取り方次第なんだな、と思い始めるのと同時に、相手の状況や育った環境にまで思いを馳せることができてきます。
もちろんそれらは決して真実では無いかもしれません。
それでも、いつまでたっても何も変わらない、殺伐としたストーリーの中を、しんどいまま、ぐるぐるとさ迷い続けるよりも、よほどましです。
もちろん、占いも役に立ちます。
・あの時、その人はどんな気持ちでそういうことをしていたのか?
・そもそも、その人はどういう気質の持ち主なのか?
・私のことをどんな風に思っていたのか?
こちらも所詮は占いなので、出てきた答えが真実かどうかなんて分かりません。
それでも、否定的な側面ばかり見て、目や耳をふさいで生きるよりは、よほど自分に対して優しくなれるのではないでしょうか。
いろんな出来事にぶち当たってきましたが、今だって辛いことは在りますし、やる気が出ない日だって、もちろんあります。
それでも、学び続けることをやめないでいられるのは、あの頃に今の私のような人がいて、自分の話を聴いてもらえていたら、こういった話を聴くことができていたら、どんなに気持ちが楽になれていただろう、と思うからです。
心が辛い時は、身体もしんどいものです。
だからこそ、心と身体の両方からアプローチする今の仕事は、これからもやめるつもりはありません。
恥ずかしいことも、申し訳ないことも、絶望したことも、分かり合えなかったことも、他にもたくさんあるけれど、
タロット占いと気功整体(遠隔ヒーリング)という、今の喜びにたどり着けたのは、これまでの経験のおかげでもあるのです。
どうか、「自分で自分を追い込むストーリーから足を洗うという選択肢もある」のだと、
「命を大切に生きることの素晴らしさと喜びに気がついて」いただけたらと、今この瞬間にも、幸せでありますようにと、祈り願うばかりです。
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