見えぬ人から、
結論から言うとですね、人は死んでも役に立てます。例えば貴方が今、とてもとても悲しくて寂しかったとしましょう。そんな時は、亡くなった貴方の愛する人の名を呼んで下さい。するとその亡くなった貴方の愛する人が、貴方に力を貸してくれます。私の御墓の前で、泣かないで下さい、そこに私は居ません、眠ってなんかいません。はい、そうなんです。亡くなった貴方の愛する人は、墓の中に眠ってなんかいません。じゃあ何処に居るかと言うとですね、在りと凡ゆる所に居ます。そして貴方に力を貸せる時を、今か今かと待ち望んでるんですね。
見える人へ。
でも1つだけ、注意して頂きたい点が在ります。亡くなった人は生きてる人が望まない限り、生きてる人に力を与えれないのです。つまり人は死ぬと、そういった存在に成ってしまうのですね。どれだけ好きでも、どれだけ愛してても。こればかりは、どうしようもない事です。あの世、は確かに在ります。霊界、と呼ばれる所も確かに在ります。在りますよ、でも!やっぱり生きてる内に、目の前に居る生きてる人に尽くしたいですよね。もちろん亡くなった人を敬わなく成ったら、それは人として終わってます。でもそれはそれ、これはこれですよね。
送る言が、
硝子の板のコチラ側がこの世、アチラ側があの世ならば。あの世に在る磁石が硝子の板に引っ付き、この世に在る砂鉄が硝子の板に集まる。じゃああの世に在る磁石が硝子の板から離れれば、この世に在る砂鉄が硝子の板から離れる。生と死って、こんな感じなんです。御墓の前で泣く位なら、生きてる内に尽くし抜きましょう。尽くし抜くのは、愛する人だけで良いじゃないですか。いつか必ず、硝子の板から磁石が離れる時が訪れます。あの世も在る、霊界も在る。でも先ず貴方の目の前に居る、貴方の愛する人との関わりをレベルアップしませんか?
在るとするならば。
神さんや仏さんと関わるのは、それからでも遅くないでしょう。と言うよりも「目の前に居る人より、俺を崇め奉れ」なんて神さんや仏さんは居ません。居るとするなら、それは神さんや仏さんを語る偽物でしょう。貴方の目の前に居る貴方の愛する人の、瞬きを数えた事がありますか?貴方の目の前に居る貴方の愛する人の、呼吸を感じた事は在りますか?相手は大人だから、そんな事は見なくて良い?本当に、そうなのでしょうか?人の肩書きや我がの体裁でなく、人と命と己の命で関わる。これこそが21世紀の、関わり方なのではないでしょうか?
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