結末

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釈迦と仏教

釈迦が説いたのは『中道』とされてますが、本当は『空』と『縁起』です。ただ『空』は難しいので、『縁起』だけを説きました。でも『縁起』さえも当時の民が分かる訳もなく、在る意味では投げっ放しのまま釈迦はこの世を去りました。釈迦は仏教を、作ってません。釈迦が死んだ後に、弟子達が仏教という宗教を作ったんですね。それに関しては、イエスとキリスト教も同じですね。釈迦が生まれて、約2500年。何時に成ったら、釈迦の思い描いてた世が訪れるのでしょうか?何時に成ったら、東洋思想が真に理解される日が来るのでしょうか?

原罪と出産

キリスト教の『原罪』という考え方を、皆様も1度は聞いた事が在るのではないでしょうか。早い話が原罪とは、子が産まれる時に母に与える痛みの事です。僕の知り合いも、数ヶ月前に出産を体験しました。彼女はその痛みの余りの辛さから「もう殺してくれ、包丁を持ってきてくれ」とまで喚いたそうです。それ程までの痛みを母に与える訳ですから、そりゃ人は生まれながらにして罪を負ってますよね。でも出産を体験した人はこうも言います「出産を終えると、とても快い」と。どうやらその辺りに、主という奴の考えが垣間に見える気がします。

完全な不完全

主、創主は全知全能なる存在。母なる存在から、初めに全てのデータを受け継いでますから。でも全知全能だからこそ、創主には体が無い。つまり創主は全てを理解してるのに、何も体験してないんですね。だから創主は己の代行者たる、体を持った創者を創りました。そして創主が私達を通して、最も体験したい事は何でしょう?それは、不自由は体験。私達は母体の産道を通って三次元世界に産まれる時に、忘却システムが働き己が全知全能で在るという事を忘れます。だって全て解ってたら、敢えて辛く苦しい思いなんてしたくないですもんね(笑)

結末を体験

釈迦もイエスも、起承転結の転までしか説きませんでした。転は結果の世界なので、そこで止めると苦しいんです。でも結は結末の世界なので、安らぎが待ってます。男性なら両乳首の間、女性ならブラジャーのホックの位置からズドンと正面に貫いた点。そこを結末、と言います。朝を迎えたら、この結末の部分を右手の指先でトントンとノックしながら、こう呟いて下さい。「結末を、体験させてあげるね」果たして私達は、結果に期待する必要が在りますでしょうか?私達に真に必要なのは、己に結末を体験させてあげる事なのではないでしょうか?

幼い頃からスピリチュアルに興味と関心を持ち、多くの師に仕えつつ学びを深める。 未だ学びの途中ながら、その学びはスピリチュアルの枠を超え多岐に渡った。その知識や能力をアウトプットする場として、祓師という職を選ぶに至る。 クライアントの心に寄り添い、明日への元気が出てくる様な施術を行う。

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