思い込み注意報
好き嫌いを自分で決めているようで、そうではない人たちがいます。
これを選んでおけば世間的に間違いがないはずだから、とか
世の中の常識的にみると大事にしなくてはならない存在だから、とか
とりあえずそれを選べば相手が喜ぶだろうから、とか
最終的にそれを選んだのは自分であることに間違いないのですが、決めた理由がずれているので、あとあと後悔したり、モヤモヤしたり、他人のせいにしたがったりします。
そして、「それを選ばないといけなかった自分の方こそかわいそう、世間に騙されたんだ。だから仕方ないよね。」で済まそうとしますが、完全にスッキリすることはないでしょう。
こうなってしまうのは「本当の自分を無視して選んでいるから」にすぎないのですが、何度同じことを繰り返したとしても「うまくいかなかった場合の責任を取りたくない、世間的に間違えたくない、批判されたくない、傷つきたくない、だから自分の感覚や意思ではなく、他人の物差しに合わせて生きてしまっていること」に自分で気がつかないことには、爽やかで清々しい人生を送ることなど、到底不可能です。
特に、お付き合いする人や結婚する相手を、自分基準ではなく「親や知り合いがこの人だったら良いというから」「紹介者がこの人なら大丈夫ですよと言ったから」などといった他人基準で選んだ場合、うまくいかないことの方が多いです。
こうなったのは他人のせい、自分で責任を取る必要がないと思って避けたり、気に入らないけどきっと気のせいだ、うまく関われない(愛せない)のは私のせいだ、などと自分基準について考えないようにしながらも、どうにかうまく関わり続けようと、無駄な努力をするからです。
そもそも好き嫌いって何でしょうね。
無意識に刷り込まれている好き嫌いの基準
分かりやすいのがテレビや雑誌、インターネットの広告です。
流行りのスイーツやスナック菓子を筆頭に、シャンプーや消臭剤、基礎化粧品など、ありとあらゆる「今は迷わずこれを選ぶのが正解!」の情報で溢れかえっています。
「これを知らないなんて!」「これを使ったことがないなんて!」「これを食べたことがないなんて!」(あなたは世間から取り残されてますよ)と無意識に不安を煽るような広告も多いです。
まるで「世界中でこれを選ばないあなたはどうかしてる!」と言われているみたいな、変な気持ちになったりもします。
「めっちゃ気になる!食べてみたい!使ってみたい!」というワクワクならまだ良いのですが、「なんか今これが流行ってるらしいから私もとりあえず好きかも・・・」というのは精神衛生上、あまりお勧めいたしませんよ、ということですね。
美人の基準もイケメンの基準もなんでもそうです。
知らないうちに、好き嫌いを決める他人基準をガンガン打ち込まれていることに気がつきましょう。
そもそも「常識的に」とか「世間的に」って何なのでしょうね。
例えば小学生の子が「だってみんな新しいゲーム持ってるもん!」と、親に新しいゲームを買って欲しいと訴えた場合の「みんな」って何だと思いますか?
「みんな」を理由に買ってもらおうとするのは、単に自分が欲しいからだと素直に言えないから?
それともみんなと一緒でないと、置いてけぼりにされてしまう恐怖心や焦りから?
他人基準で選ぶことが当たり前になる時期が幼いほど、なかなかそこから抜け出すことは難しいのかもしれません。
「自分がない・自分が何が好きなのか分からない」は、案外この辺からきているのかもですね。
兎にも角にも、周りを盾にして、周りの意見や価値観でそれを選んで、結果、それが失敗だった場合の空しさといったら、自分の意思で選んで失敗した場合のそれとは比べモノになりません。
良い人だって紹介されたから仕方なく選んでつき合ってやったのに・・・
良い品だって広告でうたっていたから買ってやったのに・・・
美味しいって噂だったからわざわざ予約して行ってやったのに・・・
だったら、誰の何の評価を信じて参考にすればよいのよ!!!
誰の何の言ってることが正しいの!!!
残念ですが、どこかに正解を探そうとしても見つかりません。(NOT FOUND)
やり場のない怒りや空しさ、誰にすがって良いのか分からない迷子感は、いつまでたっても、どうあがいても、やはりやり場は無いままです。
しかしですね、自分基準で選んだ場合は、意外とあっさりあきらめもつくってものなのです。
間違えた。ま、しょうがないか。
あの時はすごく良いと思ったけど、自分の目が節穴やったんやな。
では、次は間違えないようにしようではないか!!!となりやすいのです。
落ち込むけれど、立ち直りも早いもんです。
なぜなら、自分基準は自分でつくったものだから。間違いに気づいたらすぐに訂正して上書き保存すれば良いだけのことだからです。
これは私がつくったものである
好きなイメージも、嫌いなイメージも、元をただせば自分が勝手につくったものです。
それが外側からやってきたものであれ、内側から沸き起こったものであれ、です。
だから、好き嫌いや正しさ、他人の評価や価値基準に振り回されて、逆に身動きが取れなくなってしまったときには思い出して欲しいのです。
本当は自由だということを。
何を好きになろうが、何を嫌いになろうが、そもそも自由だということを。
いつでもやめられるし、いつでも始められるということを。
「これらは全て、私がつくったものである。」ということを。
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