無我は無理!
無我だとか、滅私だとか・・・無理ですよね、ぶっちゃけ(笑)まぁ訓練すれば、やれるかもしれませんが・・・瞑想やら座禅やらを何分も何十分もやって無我や滅私の境地に至る、では日常生活で使えないですよね。もちろん瞑想や座禅を寝る前にやって心を静めて、眠りに就き易くしたりするのは在りだと僕は考えてます。また心を治すだったり己と向き合う為に、瞑想や座禅に時を費やすのは決して無駄では無いと僕は考えてます。でもこの現代社会に於いて、やはりパッとやれてピュ〜と効く(心がスッキリとする)物の方が使い易いですよねぇ。
滅私も無理!
そもそも無我や滅私の心理状態に成る事って、何か意義が在るのでしょうか?因みに意義とは、意味と価値の事ですね。基本的に人は、我がの事を考えてる時って力が余り出ないんです。逆に、誰かの役に立つと考えてる時にパワーをMAXで出せるんです。だから単純に損か得かで考えて、無我や滅私の心理状態で生きた方がオトクな訳です。かと行って無我や滅私の境地って、そう易しく至れる物では無い訳ですよ。さっきも書きましたが、長い時を瞑想や座禅に費やせば至れるかもしれませんが・・・それでは、日常生活に於いて使えませんからね。
じゃあ利他で良いじゃん!
じゃあ、どうすれば良いか?・・・実は、さっき既に答えを書いてしまいました。そうです、我がの為でなく誰かの役に立つ為に生きるんです。つまりは、『利他』って奴ですね。無我や滅私に成ろう成ろうとするよりは、とても利他の方がやり易いはずです。先ずは、親でも子でも同性でも異性でも良いです。貴方の好きな人の役に立つ為に動いてみれば良い訳です。愛する人の為に一生懸命な利他という心理状態の時、貴方は=無我・滅私の心理状態にも成ってます。そして貴方は、貴方のポテンシャルを最大限まで煌めかせれるという訳なんですね。
むしろ利他が良いじゃん!
因みに、飯を食べるのもそうです。飯を食べて自らのEを補って、再び愛する人の役に立つ。その為に、我がが飯を食べるんです。例えば、遊びに行くのもそう。遊びに行って自らのEを補って、更に愛する人の役に立つ。その為に、我がが遊びに行くんです。『理由』ではなく、『動機』なんです。『理由』は過去を見つつ導き出した物、『動機』は未来を見つつ導き出した物。そしてその『動機』は、やはり『役に立つ為』なんです。何も初めから「全人類の為」でなくても良いと、僕は考えてます。先ず貴方の目の前に居る、貴方の愛する人の為に♡
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